ゴールデンウイークは日本伝統の春祭りのシーズンでもあり、近郊にも興味深い祭が多いです。既に下記の記事で「伊庭の坂下し」祭りを紹介しました。その前日5月3日には、こんな田舎なのにどうしてこのような豪華な祭りがあるのか驚くという「日野祭り」を、当地に住む友人に案内してもらい楽しんできましたので紹介します。
日野(蒲生郡日野町)とは
日野祭りは滋賀県蒲生郡日野町で開催される祭りです。
滋賀県の蒲生郡
滋賀県蒲生郡の名がつく行政区は、現在は日野町、竜王町だけが残っていますが、元々は、東近江市、近江八幡市までまたがる、琵琶湖東岸から鈴鹿山系の麓までの広い地域だったのです。
蒲生野・日野の地名由来
近江の「蒲生野」は、万葉集にも出てくるように古く弥生時代から拓けていました。蒲生野と呼ばれたのは、その頃には湿地が多く蒲(がま)がたくさん生えていたのでしょう。
蒲生野から先の地域は、さらに遠いと言う意味で久野「ひさ野」と呼ばれてたようで 、これから転じて日野となったという説が有力です。今も地元の神社や学校名に「久野」が残っています。
(古代に「日野牧」が設置されたこと、また、その昔、日野町のあたりが「桧物(ひもの)の庄」と呼ばれていたことに由来するという説もあります)
日野菜
日野といえば「日野菜」が有名です。当地が原産で、現在では西日本の幅広い地域で栽培されています。
ご存じない方のためにウィキペディアから説明と画像を引用しておきます。
“日野菜(ひのな)とは、滋賀県蒲生郡日野町鎌掛(かいがけ)が原産のカブの一種、伝統野菜である。現在では九州~信越の幅広い地域で栽培されており、滋賀県発祥の野菜の中では全国に広まった最も有名な野菜であると言われている。また、日野菜を使った日野菜漬けは、滋賀県名物の漬物として高い知名度を誇っている。なお、古来より発祥地では「あかな」と呼ばれているという。”
蒲生氏郷(がもううじさと)の故郷
鎌倉時代以降、近江国守護の佐々木氏(近江源氏とも呼ばれる)の下で、この日野あたりの領主として蒲生氏が代々治めてきました。日野は蒲生氏が日野城(中野城)の城下町として開発した町なのです。
蒲生氏郷
戦国時代、蒲生氏郷は 近江国蒲生郡日野に六角承禎(佐々木氏)の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれました。六角氏が織田信長に滅ぼされた後は、自ら織田の人質になって織田方についた。以降信長、秀吉の傘下で活躍し、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主となりました。
氏郷は商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、漆器等手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築きました。
会津「若松」の名は、日野城(中野城)近くの蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われています。他にも松阪市や会津若松市内には日野町、甲賀町など滋賀由来の地名が今も残っています。
日野商人
蒲生氏が伊勢松坂・会津若松へ移ってからも、日野は漆器や製薬の産地、近江商人(日野商人)の発祥地として繁栄、近江八幡、五個荘とともに近江商人の3大出身地に称されます。
江戸時代になっても日野商人は大いに活躍し、普段は質素倹約で財力を蓄えた商人達は、競って故郷に寄進したのでしょう。日野町の町並や、祭礼行事に、昔の繁栄の証を見ることができるのです。
日野祭り
日野祭りは前述の蒲生氏の氏神でもある馬見岡綿向神社の春の例祭で800年の歴史があります。
馬見岡綿向神社
上記写真は唐破風の屋根が綺麗な馬見岡綿向神社です。
ここでは白い猪が神の使いです。そう言えば神話で日本武尊(やまとたけるのみこと)を倒した伊吹山の神も白い猪でしたね。
紀元545年、蒲生野の豪族二人が白い猪に導かれて出会った神の化身のお告げにより綿向山(標高1,110m)の頂上に祠(ほこら)を祭ったのが始まりと伝えられる。平安時代初期に里之宮として現在の地に移され、蒲生上郡の総社として信仰を集めました。その後、当地を支配し城下町を築いた蒲生家が氏神として庇護し、さらに江戸時代、日野商人が出世開運の神として崇敬しました。
山頂には現在も奥宮があり、21年ごとに建て変える式年遷宮が行われている。
神輿
馬見岡綿向神社は地域の総社であり、関連三社の神輿3基が揃い、豪華です。
曳山(ひきやま)
地方により山車(だし)、楽車・壇尻(だんじり)、山(やま)などと言いますが、日野では曳山と呼ばれ、現在16基も現存しています。現存する曳山は江戸中期から後期に作られたものが多く、普段は各地区にある倉庫、山倉に保管されています。
当日は各町内から街道を巡行して神社境内に勢揃いします。前述の神輿3基と会わせて実に豪華絢爛です。
立派な曳山
特に頭書の写真の西大路曳山(にしおおじひきやま)は日野最大の豪華な曳山です。上記の倉庫に入った様子や下の写真で大きさを実感してもらえるだろうか。
16基の曳山は、大きさやデザインもいろいろです。下の曳山は二番目に大きく、木材に金箔や漆の装飾がない素木(しらき)作りが却って格調高く思え、私好みです。
日野祭りはみんな参加の祭り
次の日に観た「伊庭の坂下し祭り」が勇壮で若者が力を披露して活躍する祭りであるのに対し、日野祭りは年輩者や女性の参加が多く、のんびりした雰囲気で町中が楽しんでいる感じだ。写真にも見える通り、女性が綱を引くだけでなく、曳山の上に乗ったり笛を演奏したりして参加していました。女性の参加が顕著なのは時代の移り変わりなのか、それとも元々日野祭りの特徴なのでしょうか?
曳山の方向転換
曳山には4輪の車輪がついていますが、全て軸が固定ですので方向転換が課題となります。京都の祇園祭りでは竹を敷いて滑らせますが、ここでは別の方法です。
日野祭りでは曳山の底裏中央に突き出た中心棒で回転させます。この方法は他地方でも行われ、「ギリ廻し」とか呼ばれます。
曳山の正面または後面の下に二本の棒を刺して枕のような台を支点に山車を持ち上げ、心棒と地面の間に別材の台を挟みこみます。
一連の動作の指示は、リーダーが拍子木の音で合図します。
心棒の下に入れた台により四つの車輪が少し浮きますので、その状態で心棒を中心にバランスを取って曳山を回転させれば、下のように比較的少人数でも回転できるわけです。
実際は大きな曳山の4輪をバランス良く浮かせるのは難しく、地面を擦る車輪には棒をてこのように使って回転を補助します。
また、最大の曳山西大路では下の写真のように更に内側に小径の補助輪がついていました。
桟敷窓
日野祭りの一つの特徴は、昔からの民家にある独特の見物窓「桟敷窓(さじきまど)」です。下のように家の道路に面した塀や屋敷の一部に祭り鑑賞専用の窓がついた桟敷があるのです。当日は赤い布で飾り付けされ、祭りの提灯と共に雰囲気を盛り上げます。
下は現代建築の友人宅の窓から見える様子です。
私達友人仲間三人は、この特等席で手作りのご馳走と地酒をいただきながら最高に楽しませてもらいました。Tさんご夫妻、本当にありがとうございました。