先日、東近江市観光協会主催の「近江湖東の王墓を巡るツアー」に参加しました。案内と語りは地元文化財保護の専門家で、通常見られないところまで特別に見れたり、直接史跡管理者の説明を受けたりと、大変内容の濃いものでした。
【追記】村井御前社について現地確認できたので追記しました。(2016年12月14日)
近江は日本史劇場の最優秀助演俳優
古墳時代は、3世紀後半、大和の国に突如現れた大型前方後円墳に始まり、その後7世紀まで古墳と呼ばれる王墓が列島各地で造営されました。この古墳時代を凝縮した内容が近江(滋賀県)湖東地方(鈴鹿山系から琵琶湖までの旧蒲生郡を中心とした地域)に見られ、語り部曰く、「大和・山城が日本史劇場の主演俳優とするなら、近江は最優秀助演俳優なのです」。
このツアーは、この地域(旧蒲生郡)にある古墳時代の史跡をバスで巡るものですが、以下訪れた順に紹介します。
*本記事において「旧蒲生郡」とは市制導入以前の広い範囲の蒲生郡を指します。
目次
湖東地域の古代史跡を巡る
安土城考古博物館
史跡を巡る前に、最初に県立 安土城考古博物館を訪れました。前身は昭和45年開館の「近江風土記の丘資料館」で平成4年に安土城考古博物館になりました。
下記4つの国指定遺跡を中心に、考古と城郭をテーマにした博物館です。
①大中の湖南遺跡、②瓢箪山古墳 ・・・第一常設展示室
③観音寺城跡、④安土城跡 ・・・第二常設展示室
古墳時代についてまずここで予習します。瓢箪山古墳や雪の山古墳など現地は埋め戻されて石室などは見ることはできませんので、第一常設展示室で石室模型や出土品(現物またはそのレプリカ)と解説により学習しました。
瓢箪山古墳(国史跡)
最初に向かった史跡瓢箪山(ひょうたんやま)古墳は、全長134mの滋賀県下では最大規模の前方後円墳で、国史跡に指定されています。
昭和10年地元住民が壁土採集中に箱式石棺を発見し、その後の発掘調査で後円部に3つの竪穴式石室、前方部に2つの箱式石棺が見つかりました。繖山(きぬがさやま、観音寺山ともいう)の支尾根に築造されていて、4世紀中頃と考えられている築造当時は見下ろす視界に琵琶湖(内湖)が広がっていたと考えられます。
現地に到着すると、道路から古墳への登山道の入り口に写真の案内板がありました。
古墳のあった墳丘は今は木が生えて、石棺の墳丘らしき少し盛り上がった所があるだけです。もう少し整備すれば良さそうですが、土地は個人(寺院)の所有で難しいそうです。それでこの看板も現地でなく登山道の入り口に立っているのですね。
川合東出の石棺仏
石棺仏とは古墳の石棺の蓋、底石などを転用して仏像を彫刻したもので、県内に数例あります。
今回訪れた東近江市川合東出町(旧蒲生郡蒲生町川合東出)にある石棺仏は、高さ73.5cm(コンクリート中にある下部は除く)、彫り込み幅55cm、花崗岩製で裏側を見ると家形造りの蓋の内側に地蔵菩薩像が薄彫りされている。石棺は6世紀末から7世紀初めのものと推定され、光背の二重円光の様式から鎌倉後期の造立と推定されます。
石棺仏が祀られている地蔵堂は江戸時代に建立されたものです。
普段は扉が閉じられていて石棺仏を見ることができませんが、この日は特別に開けていただいたのです。
このお堂は屋根の形が端正で、特に頂部の飾り瓦がいいですね。
市辺押磐皇子陵墓(宮内庁所管)
東近江市 市辺(いちのべ)町(旧蒲生郡市辺村)
続いて訪れた東近江市市辺町は、市町村合併以前は「八日市市 市辺町」と市の字が3つも並ぶ珍しい地名だった。古くは東古保志塚村と西古保志塚村に分かれていたが、この古墳が市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の墓に治定される前年の明治7年に合併して市辺村になったという。なおその市辺皇子の市辺は大和(奈良)の地名から来ています。
陵墓は皇族の墓所で宮内庁所管です。この陵墓も下の写真のように柵で囲われ、通常は柵の中には入れません。
今回は特別に許可され、墓守をされている地元の方の説明がありました。旧地名の古保志塚村の「こぼし」は「こぼつ(壊す)」からきているそうです。そりゃあ陵墓に治定されるのに「塚を壊す村」ではまずかったでしょうね。
市辺皇子暗殺に関する歴史
履中天皇(りちゅうてんのう)の第一子で押歯(八重歯)であったことからこう呼ばれた市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)は、皇位継承をめぐって西暦456年従兄弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に近江の国来田錦(くたわた)蚊屋野(かやの)(現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近とされる)に狩りに誘い出され、従人の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)ともども暗殺され、同じ穴に埋められた。後になって皇位を継承した市辺皇子の子・顕宗天皇は、埋められた場所を記憶していた置目(おきめ)という老婆の案内で遺骨を探し当てたが、両者の遺骨が頭以外区別がつかなかったので同じような塚を2つ並べて建てたという。(古事記と日本書紀に記載がある)
明治に陵墓に治定される
古代文献に登場する各地の陵墓も江戸末期まで下るとその場所を特定できないものが多くなっていたが、明治になって不明陵墓の治定作業が実施された。市辺王子の墳墓については、他にも説があったが、この地区にあった円墳2基(古保志塚)が、その陵墓であると治定されました。
本当に市辺王子の墓か?
不明陵墓の治定は当時の考古学の知識で行われたのですが、現在の考古学から見ると間違いが多いようです。この市辺皇子の陵墓の場合も、現在の考古学的見地からはこの古墳は6世紀古墳時代後期の群集墳であり、記紀に記述の5世紀末とずれるので市辺皇子のものではないとされています。
蒲生野と呼ばれる地域の中でも奥の方であるこの辺は、奈良からは相当遠いですけど、今のように交通機関がない古代にわざわざ狩りに来ていたんですね。それはともともかく、この古墳が市辺皇子の墳墓であることを個人的にも疑問に思うことは、地理のことです。
日本書紀には皇子の墓は蚊屋野の東山に墓陵を作って埋葬したというが、ここ東近江市市辺町は、蚊屋野とされる蒲生郡日野町鎌掛から方角違いの北北西方向に約18kmも離れており、車でも30分ほどかかります。奈良から遠い方向にわざわざこの距離を、遺体もしくは遺骨を運んだとは考えにくいのです。更にこの地は平地で山ではありませんし、二つの塚もときの天皇が父のために作った陵墓にしては小さ過ぎます。
置目老媼(おきめのおみな)【2016年12月14日内容修正】
当時この地を治めていた沙沙貴山君(ささきやまのきみ)韓袋宿裲(からふくろのすくね)は、謀殺事件に連座した罪で、全ての官籍と沙沙貴山君の姓を剥奪され陵戸(はかもり)の賤民に身分を落とされますが、実は置目も同族だったのです。
置目の兄の倭袋宿裲(わぶくろのすくね)は、情報を届けた妹置目の功により、本姓の沙沙貴山君の氏を賜わります。置目は置目老媼(おきめのおみな)の名を賜り、宮中に召されて篤くもてなされました。その後宮中を辞するとき、蒲生郡日野町の地を給わり、逝去の後は里人らが祠を立てて祀ったという。それが今でも下記記事で紹介した日野祭りが行われる馬見岡綿向神社に残っているのです。
馬見岡綿向神社が鎮座する村井の森は古くは「置目の森」と称せられ、本殿脇(向かって左側)にある境内社「村井御前社」は置目老媼命(おきめのおみなのみこと)が祭神なのです。馬見岡綿向神社は西暦796年に綿向山の上にあった綿向神社の里宮として祀られたのですから、それより2世紀以上古いことになります。(下記追記参照)
(この項は主に記紀の旅を参考にさせてもらいました)
村井御前社【2016年12月14日追記】
先日機会があって馬見岡綿向神社の村井御前社を確認してきました。確かに本殿に向かって左側にあり、下がその写真です。
社の左に橙色の立て札(由緒書)がありますが、拡大したのが下の写真です。
これによると、もともと(5世紀より)、この地には置目老媼命(おきめのおみなのみこと)が祭神の村井御前社があったのですが、796年になって綿向神社を山上からこの地に移したということです。
古くから村井という地名であるこの辺りに隠居した置目老媼は村井御前とも呼ばれていたわけです。
木村古墳群
東近江市木村町(旧蒲生郡木村)には七ツ塚と呼ばれる7つの古墳群がありましたが、圃場整備などで現在はなくなってしまいました。なかでもケンサイ塚古墳は昭和36年(1960年)に発掘調査が行われ、周囲70-80m、高さ10mもある県下最大の円墳とされ、鉄製武具などの副葬品や家形埴輪や円筒埴輪などもたくさん出土しましたが、近くを走る名神高速道路の建設の土取りで消滅しました。平成12年度の調査で一辺80mの方墳と訂正されました。
隣接する川合地区には天乞山古墳と久保田山古墳という2つの古墳があり、圃場整備に伴い発掘調査され、古墳公園「悠久の丘蒲生町あかね古墳公園」として整備されました。前記7つの古墳群とあわせ合計9つを木村古墳群と呼びます。
天乞山(あまごいやま)古墳
一編65mの方墳で上下2段に分かれ全高は10mあったと推定されます。南北両側に造り出しが付設された特異な形状が特徴です。墳丘の裾周りには葺石が貼られていて、周囲は幅20-24m、深さ1mの周濠となっていました。
頂上の埋葬施設は何度も盗掘を受けて石室は壊され、副葬品は見つかりませんでした。残された大きくて扁平な天井石3個や穴のくぼみより6~8mの竪穴式の石室があったと推定された。写真は、調査により知りえた資料から復元された竪穴式石室です。
埴輪は造り出し付近から円筒型や朝顔型円筒埴輪が出土し、この特徴から作られた時期は5世紀前半と推定され、この古墳群で一番古いものです。
久保田山(くぼたやま)古墳
南北2方向に造り出しを付設した円墳。墳丘は2段構成で、最大長75.8m、直径57、現高6.1m。造り出しは長方形で周濠は最大14m幅もある。
下段のテラスでは0.6m間隔で円筒埴輪が見つかっており、もとは墳丘を一巡していたとみられます。埴輪の特徴から5世紀前半の時期に天乞山に続いて築造されたと推定されています。
葺石は墳丘裾部及び上段部の斜面で見つかっており、もとは斜面全体を覆っていたとみられます。上記のような調査結果から写真のような現在の整備された形に再現されたものです。
朝顔のような埴輪の形は上に瓶等を置くためであったらしいが、次第に実用的なものから装飾的なものになったという。
この古墳は埴輪や葺き石が再現されていて建設当時のイメージが湧くのが素晴らしい。当時、王の権威を見せる墓だったんですね。
八幡社古墳群
東近江市中羽田町(元蒲生郡中羽田)、雪野山の東麓にある17基からなる後期群集墳。前方後円墳である46号墳以外は全て小規模な円墳である。6世紀中ごろから7世紀初頭に造営されたと推定される。
八幡社46号墳
全長24mの新しい時期の小規模な前方後円墳で3つの横穴式石室がある。
一番右の石室に入ってみたが、中は広くなっていて人が立てる高さである。
右の写真は、一番左の竪穴を入口から覗いたところであるが、奥がカギ型に左に曲がっているのが珍しい。
雪の山古墳(国史跡)
標高308.8mの雪野山の頂上に位置する墳長70mの前方後円墳で、平成元年に東近江市が頂上に琵琶湖が見える展望施設を作ろうとして、偶然未盗掘の竪穴式石室が発見されたものです。
今回残暑厳しき中を頂上まで登りましたが、比高差200mを超えるのできつかった(~_~;)
頂上は古墳の後円部になっていて中央地下に2基の埋葬施設があり、発掘されたのは古い方の石室だった。石室は発掘調査後埋め戻され、現況は写真のようにただの平地になっていた。
墳丘の裾には、かなり詳しい説明の看板が設置されている。
この雪野山古墳は、豪族の首長級の古墳が未盗掘で発見されたので、古墳時代前期前半における副葬品目をほぼ網羅しているなど、考古学的に大変貴重な資料を提供した重要な古墳であり、国史跡に指定されました。
発掘調査された穴は埋め戻されたが、実は未だ掘られていない墓が隣に眠っています。なぜもう一つを調査しないのか、理由は保存のため。現在の技術をもってしても発掘すると必ず劣化するという。掘らないのが一番の保存方法。後世の研究者の取り分を残しておくという意味もあるという。
千僧供古墳群
近江八幡市千僧供町(旧蒲生郡千僧供村)に分布する古墳時代中期~後期の10基からなる古墳群で、同一地域で長期間首長墓を造営し続けられたことが確認できるまれな事例だという。
住蓮坊古墳
墳丘の直径約60mの円墳、周溝を持ち、周溝より出土の須恵器より5世紀中頃築造とされる。
円墳部の頂上に2基並んでいる石塔は、後の江戸時代に建てられた墓で、鎌倉時代前期当地区で処刑された住蓮と、京都で処刑されたという安楽の二僧を弔うものです。二人は法然の弟子(親鸞とは兄弟弟子ということになる)で、後鳥羽上皇が寵愛していた松虫姫、鈴虫姫という美声かつ容姿端麗の2女官を剃髪、出家得度させたため、上皇の怒りにふれ、打ち首の刑に処せられた。町内には斬首された住蓮の首を洗ったという「首洗い池」も残っている。
供養塚古墳
全長52mの帆立貝式古墳で5世紀中ごろから後半に築造され、くびれ部後円部に幅8m長さ4mの造り出しがある。藤井寺市蕃上山古墳と同一規格である。江戸時代に竪穴式石室より人骨・鏡・太刀・玉類出土。昭和8年小規模な竪穴式石室発見、短甲・鉄刀剣が出土した。また埴輪が多量に出土し、人物・家・馬・繖(きぬがさ)など豊富な内容の形象埴輪が注目されている。
千僧供地域歴史資料館
近江八幡市千僧供町には、前記の10基の古墳をはじめ、奈良時代から平安時代の蒲生郡衙(ぐんが)に関連する可能性の高い御館前遺跡や由緒ある神社や寺院など多くの歴史的遺産があります。
町内自治会はでは千僧供町ホームページで紹介するとともに、千僧供地域歴史資料館で資料を保管・展示されています。開館は土曜・日曜・祝日のみで無料です。今回のツアーで資料館を訪れ、特別に館長さんから説明がありました。
展示は、古墳から出土した埴輪や武具(下記写真)、供養塚古墳の再現模型、発掘時の写真のパネル展示、その他の歴史的資料など町内会管理とは思えない豊富な内容です。
古墳時代を研究する手法はどうなっているの?
古墳の年代による特徴を調べる考古学
古墳の年代の判定は墓の形式や出土品の特徴を、それまでの判明している各地の出土品との比較で判定するのが考古学の手法です。これまで出てきた古墳を推定される築造年代順に並べると次のようになります。
- 雪野山(前方後円、竪穴式石室2)4世紀初頭
- 瓢箪山(前方後円、竪穴式石室2+箱式石棺)4世紀前半
- 天乞山(方墳、竪穴式石室1)5世紀前葉
- 久保田山(円墳)5世紀前半
- 住蓮坊(円墳)5世紀中頃
- ケンサイ塚(方墳)5世紀中頃
- 供養塚(帆立貝型、竪穴式石室2)5世紀中頃~後半
- 八幡社46号(前方後円、横穴式3)6世紀後半
古墳時代は大きく前記・中期・後期に分けられます。
前期は日本独自の形の前方後円墳で、一段高い円墳部に埋葬(主部)、低い前方部で祭事をしたと考えられます。墓穴は竪穴式で上から蓋をして土を被せるものです。一つの石室に一人の死者(首長)を葬るという葬法です。
中期になると形が方墳や円墳に変化します。
そして時代が進むにつれ玄室が横穴式になります。横穴式の玄室そのものは広い空間であり、一人の死者だけでなく親族や血族の死者を一緒に葬ることもできますし、同じ石室に後に棺を追加したりもできます。
後期になると西暦642年薄葬令が出されるなど墳墓の規模が小さくなり、副葬品の豪華さに重点が移ります。
上記の内容はほとんど考古学のみの成果ですが、歴史を探求する手法は他にもあります。
歴史文献資料学
古事記(712年完成)と日本書紀(720年完成)は、それ以前の歴史書もあったが焼失したとされ、日本における最古の歴史書になります。あとは日本のことが書かれている中国の歴史書です。
古墳時代は記紀成立以前ですが、当時の記憶や伝承で書かれているわけです。記紀に先行する歴史書からも引用したでしょう。その内容には伝承の間の誤りや、大和朝廷の政治的思惑による歴史の歪曲や組み替えも部分的にはあった可能性も踏まえなければなりません。記紀の古い時代の部分は単なる作りごと神話だとされた時代もありましたが、最近の考古学の研究成果と一致することが多く、史実研究の最重要な手がかりには違いありません。
科学的年代測定法の出現
遺跡や遺物の制作年代が確定できれば古代の歴史研究は大きく進歩します。近年は科学的アプローチもあります。
放射性炭素年代測定
自然の生物圏内において放射性同位体である炭素14(14C) の存在比率が1兆個につき1個のレベルで一定に保たれていることを基礎とする、動植物の遺骸を使用する年代測定方法ですが、炭素14(14C) の存在が極度に微量であるため測定誤差が大きく、存在比率が場所や時代により一定ではないので時代や場所により補正が必要などの問題が指摘されています。
年輪年代法
同じ地域・時代に成長した木々であれば、刻まれた年輪パターンも類似したものとなるという原理から、樹木の年輪パターンを分析することによって、年代を科学的に決定する方法です。年輪幅や密度など木々に共通の(平均的な)年輪パターンの変化をグラフにした標準年輪曲線を作成し、当該の木材の年輪パターンと比較することにより伐採年が年単位でわかるというもの。ただし古材を使用したり、修復で新しい材料を使用した可能性もあり、建造物の築造年代と一致しないことも考えられます。
古代史の真実はどこにある?
古代の研究は純論理的には証明できないことが多すぎて仮説の積み重ねの感があり、新しい発見があるとそれまでの定説が覆ることもよくあります。炭素14法や年輪年代法による年代測定も画期的ではありますが、現状では精度や信頼性が不十分で結果を鵜呑みにできません。
歴史文献の研究、古墳などの発掘と遺物調査による考古学、近年開発された科学的年代測定法などの手法を総合して判断するしか、古代歴史の真実に迫れる道はないのです。
日本の古代史において興味ある最大のテーマは「卑弥呼の邪馬台国がどこにあったか」ですが、百花繚乱の説があり未だに結着していません。いつか卑弥呼の墓が判明する日が来るのでしょうか。下記HPを見ると、古代歴史の解明には、まさに総合して判断する必要性が分かります。説得力がある内容ですので、一読をお勧めします。