木地師のふるさと君ヶ畑~白洲正子が魅入られた惟喬親王伝説の村

先日初めて君ヶ畑を訪れました。「白洲正子のかくれ里を征く、木地師の村を歩む刻」というガイドツアーに参加したのです。

君ヶ畑(きみがはた)や政所(まんどころ)は、滋賀県の琵琶湖の東側で鈴鹿山脈の麓にあります。当地からそう遠くはありませんので、その地名は子供のころから(ある種の憧れをもって)聞いていましたが、これまで行ったことはありませんでした。

君ヶ畑というところ

白洲正子の随筆「かくれ里」に登場する君ヶ畑

白洲正子

正子は1910(明治43年)祖父が元薩摩藩士で伯爵であった樺山家に次女として生まれた。6歳で能を習い始め、14歳のとき当時女人禁制だった能舞台へ女性として初めて上がる。学習院女子部初等科修了後、米ハートリッジ・スクールに留学し、1928年(昭和3)年 18歳で帰国後白洲(しらす)次郎と出会い、翌年結婚した。

白洲次郎は、特に終戦後の日本で吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合うなど活躍しており、近年とみに評価が上がっている)

白洲正子の随筆と近江(滋賀県)

小林秀雄や青山二郎など一流の文化人と交流しながら、日本文化全般に関する随筆を執筆。関東在住であったが、昭和34年(43歳)ごろから能面を求めて各地を旅するようになり、1964年(昭和39年) 随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。

西国三十三ヶ所を巡る取材等で近畿地方各地を旅し、1969年より山里を中心とした紀行文集『かくれ里』を執筆し、第24回読売文学賞を受賞、この中で君ヶ畑を訪れている。正子は近畿地方でも特に近江に魅入られ、滋賀県内を巡って各地の伝承を綴って紀行文集「近江山河抄」(1972年より執筆)を書いている。1998年88歳で亡くなった。

君ヶ畑への道のり

今回のガイドツアーは現地集合なので、車で現地に向かった。以前の住所は滋賀県神崎郡永源寺(えいげんじ)町君ヶ畑であったが、合併で現在は東近江市君ヶ畑町である。

名神高速道路八日市ICから八風街道と呼ばれる国道421号線を東へ(正子は「かくれ里」で南に下ると書いているが)走ると、この時期紅葉で賑わう永源寺があり、それを横目にさらに進むと永源寺ダムがある。

永源寺ダムから上流を望む

永源寺ダムから上流を望む

ダムを過ぎてそのまま道なりに走ると、道の駅 奥永源寺があり、更に進むと鈴鹿の山を貫く石榑(いしぐれ)トンネル(2011年開通、全長約4km)に至る。トンネルの向こう側はもう三重県いなべ市である。

君ヶ畑へ行くには、ダムを過ぎて道の駅 奥永源寺までの途中で左折して県道34号線へ入る。分岐点は特に道標がなく県道も細いのでわかりにくいが、愛知川とその支流である御池川が合流する所で、右手に日登美山荘(後述)がある。

この辺りは鈴鹿山系の最高峰・御池岳の麓で、既に小椋谷と呼ばれる地域である。小椋谷には「六ヶ畑」と呼ばれる黄和田・九居瀬・政所(まんどころ)・箕川・蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑の各集落がある。

県道34号線を御池川に沿って登って行くと、道に沿っていくつか小さな集落があり、蛭谷を過ぎて暫くのところに「木地師街道」という手製の案内標識があった。君ヶ畑へ入る分岐点だ。ここを右折し、舗装はされているが車が対向できないくらい細く険しい谷道を更に進むと、一番奥の人里・君ヶ畑の集落にようやく到着した。八日市ICから40分くらい要した。(公共交通によるアクセス法は後述)

村内の様子

君ヶ畑の民家

かつての茅葺き屋根はトタンで覆われている。

集落内は山奥らしく上の写真のように田舎情緒がある。ただ、写真にはないがゴミ集積所などの生活臭は町中と変わらない。

村はずれの一番奥にはモダンな白い建物があった。

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ノエビア 高山植物研究所

表札に「ノエビア 高山植物研究所」とあったが、休日だからか、いつもなのかわからないが、人の気配がなかった。

山から下りてきた一人の登山者に会ったが、ここから先は下のように林道が続いていてもう人家はない。

林道

山の方へ続く林道 御池林道

御池林道というらしいが、ずっと山奥までこのように舗装がされているのだろうか。この先を行き、再び山を下ると多賀(彦根市)に通じているという。

後で聞いたが、ノエビアの研究所の地は以前は政所中学校・小学校の君ヶ畑分校があったが、児童の減少に伴い平成11年に廃校になり、平成16年に政所の本校も廃校になったという。

このようにこの地でも過疎化は深刻で、明治11年君ヶ畑には65戸600人が住んでいたが、林業が廃れ、冬は雪に閉ざされるので通勤するのもかなわない。こうして若い人は就職のため村を出て平成22年には23世帯32人に減少。いまや若い人や子供はいなくなり一人住まいのお年寄りが増えている現実がある。(現在ただ一人の若者は、今回のツアーガイドをしてくれた兵庫県出身の移住者だけ)

金龍寺(高松御所)

集合場所は金龍寺である。Yahoo!ナビには「金竜寺」で登録されていたが、金龍寺が正しい。

ノエビアの研究所の手前にある広場に車を止め、寺に向かうと道路から数段階段を上がったところに立派な門があった。

金龍寺の門

金龍寺の門

菊の紋がついた屋根、京都の御所を思わせる青地に白い線の横縞模様の塀など、高貴な格式が天皇家ゆかりであることをうかがわせる。下の写真が本殿であるが、一般的な寺院の本殿と違い寝殿風の様式である。

金龍寺本殿

金龍寺本殿

今回のガイドツアーは、最初にこの中で説明があり、伝来の能面を拝観した後、集落内の神社などを案内してもらった。

惟喬親王とその伝説

君ヶ畑白洲正子以上に惟喬親王(これたかしんのう)を抜きには語れない。

惟喬親王(844―898年) 

惟喬親王は承和11(西暦844)年、第55代文徳天皇(もんとくてんのう)の長子として誕生された。後に誕生した第4皇子惟仁親王の母は、太政大臣・藤原良房の娘、明子である。良房は外孫の惟仁親王(後の清和天皇)を僅か生後8カ月で立太子させ、9歳で天皇位につけ補佐した。

15歳になられた惟喬親王は、第2、第3皇子が亡くなり身の危険を感じ、良房の追跡を逃れ、藤原実秀、堀川中納言らの側近を連れ琵琶湖を船で渡り、鈴鹿山系の山深くまで入られた。最後に当地にたどり着いて幽棲されていた住まいがこの金龍寺である。だから高松御所とも呼ばれ、菊の紋の使用が許されているのであった。

当時この地は小松畑と呼ばれていたが、この後君ヶ畑と呼ばれるようになった。また従者の二人は藤原→小椋、堀川→大蔵と姓を改めたのであるが、その子孫である木地師が移り住むことにより全国に広まったといわれる。

惟喬親王の逃避行にまつわる伝承

逃避行の途中である琵琶湖東岸から愛知川流域各地にかけて、たくさん言い伝えが残っており、東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う/滋賀報知新聞やその他で紹介されている。その一部は以下のとおりである。

近江八幡市の琵琶湖岸の長命寺港と沖ノ島への渡船が出る堀切港との間に「国民宿舎 宮ヶ浜荘」があるが、この宮ヶ浜という地名は、琵琶湖を船で渡ってきた惟喬親王がここに上陸されたことに由来するという。宮ヶ浜から山ひとつ越えた王の浜(近江八幡市白王町)は当時は琵琶湖の入海浜だったが、この王とは親王のこと。この地にある若宮神社には惟喬親王が祀られ、「この地で手芸や細工を教えられた」との伝説をもつ。近江八幡市御所内(ごしょうち)町はもとは別の名称だったが、親王が宿泊の礼として御所内という名を授けたという。東近江市建部北町の小林家では「年末の慌ただしいとき親王がお泊まりになり正月準備ができなかった。今も門松など正月飾りをしない習わしがつづいている」という。甲賀市山内町笹路(そそろ)集落も同じ理由で正月飾りをしないという。

京都大原の惟喬親王伝説

大原三千院(京都市左京区)に近い小野山の麓に、惟喬親王墓と小野御霊社がある。同じく東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う/滋賀報知新聞によると、小野御霊社由緒や地元・大原の古文書につたわる親王伝承は、およそつぎのとおりである。

弟君・惟仁親王が清和天皇として即位された翌貞観元年(八五九)、親王は御年十六歳で白馬に乗り都の御殿を去り東に向かわれた。藤原(小椋)実秀・堀川中納言らがお供をし、下八木・春日神社を経て蛭谷・君ヶ畑に御所をさだめられた。小椋谷に閑居されること九年、轆轤(ろくろ)の技術を地元の民に教えておられたが、貞観九年(八六七)に親王は鈴鹿・小椋谷から大原の地に宮居を遷された。その後、出家され素覚と称え、元慶三年(八九七)に京北・岩屋畑(現・京都市北区雲ヶ畑町)に移られた。親王はこの地でご発病、法華経をとなえつつ薨去された。ご遺言で亡骸は大原に戻り御殿裏に葬られ五輪塔が建てられた。小椋太政大臣実秀と堀川中納言の二人は、親王の二十三回忌をつとめたのち親王のご事績を守護するため小椋谷にもどった。その他の従者は苗字を久保と改め、大原で杓子や木椀をつくる業を受けついだ。

惟喬親王の轆轤発明伝説

小椋谷の伝説として、当地に幽生されていた惟喬親王は、夢からヒントを得て、法華経の巻軸が回転することからろくろ(轆轤を思いつかれるなど木の椀や盆を作る技術を家臣に教え、土地の杣人がこれを学んで木地師となったと伝えられる。

ここでいうろくろは、下の写真(集落内にあるミニ展示館にあった古いもの)のようなものです。陶器のろくろとは違い横型で、一人が紐を引いて軸を回転させ、もう一人が右端に取り付けた木塊を刃物を当てて削るわけである。これを手引きから動力にしたのが今の旋盤という機械になります。

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ミニ展示館にあった古いろくろ。焼き物のろくろと違い横型で、二人で操作する。

木地師の特権付与伝説

弟の惟仁親王は9歳で即位し清和天皇になられましたが、実権は外戚の藤原良房にありました。時が経って良房が亡くなり重石が取れた時、兄惟喬親王への天皇位の譲位を打診されたが辞退されたため、代わりに下記の木地師特権を与えられたという。

  1. 木地師は全国の山の7合目より高いところで木を自由に採って良い
  2. 全国通行自由の手形
  3. 木地物を作る特権免許(木地師以外は作ってはいけない)

さざれ石伝説

惟喬親王ゆかりのもう一つの逸話がさざれ石伝説である。

さざれ石とは

さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、小石が集まって、長い年月をかけて大きな岩の塊に変化した、学名「石灰質角礫岩」のことも指す。これは石灰岩が長い年月の間に雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によって固まっもので、いわば自然にできたコンクリート塊である。日本では滋賀・岐阜県境の伊吹山が主要産地。

君が代のもとになった和歌が詠まれた伝承

岐阜県揖斐川町にある伝説のさざれ石に設置されている解説によると

君ヶ畑におられた惟喬親王に仕えていたとある木地師が木地椀の良材を求めて岐阜県春日村(現在は合併により揖斐川町)に移り住んでいた。江州の君ヶ畑に通う途中、自然に凝結、苔むして巨巌になっている珍しいこの石の状態を見てありのまま、「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」と詠んで千代に栄えることを希ったという。

この木地師は当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となった石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜られることとなる。

初句の「わが君は」はもちろん惟喬親王のことであり、出典の『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)も同じ歌詞である。少し時代が下がると初句を「君が代は」に変更し一般化されたお目出たい賛歌として用いられるようになった。明治になって国歌の歌詞として採用した時に変更されたというのは誤解である。

惟喬親王の逝去と御陵

当地の伝説では859年にこの地にたどり着いた後、逝去までの19年をこの地で暮らしたということで、下がその御陵です。

惟喬親王の墓

惟喬親王の墓所

惟喬親王の墓は上記の京北・岩屋畑にもあり、一度訪ねてみたい。

大皇器地祖神社(大皇大明神)

惟喬親王が亡くなられると天皇の命で元慶10(西暦880)年惟喬親王を祀る神殿が造営され、大皇大明神と称された。以降全国木地師の祖神として崇め祀り、木地師を管領する氏子組織となります。木地師支配所として全国の木地師たちの保護・統括をしていたのです。

今は大皇器地祖神社となっている大皇大明神をお訪れると、何本もの杉大木が迎えてくれます。

大皇器地祖神社参道

大皇器地祖神社(大皇大明神)参道

境内杉の大木

奥の方の杉の木の周囲長は6mもあるとか

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社(大皇大明神)本殿

本社の丁度真後ろにも大きな杉の木がある。拡大して見ていただくとわかるが、社殿の内部には簾がかかって宮中風である。

惟喬親王伝説と史実の推測

惟嵩親王については、前記の他に、滋賀県内には多賀町大君ヶ畑(おじがはた)甲賀市土山町山女原(あけんばら)、京北・雲ヶ畑と大森東、三重県、奈良県など各地に伝承が残っている。しかしこれらの伝承を裏付ける記録文書は少ない。今回記事を書くにあたり調べた結果から私は次のように推測している。

  1. 京都・大原に残る古文書や各地の伝承から、惟喬親王君ヶ畑に滞在され、一行が木地細工の技術を教えたことは間違いなさそうである
  2. 君ヶ畑の伝承で親王が15歳でここに来られ19年後に亡くなられたということだが、34歳の若さで早死にということになり不自然。記録では親王は23歳の時京都・大原に移られ、京北で寛平九(897)年2月20日、54歳で亡くなられている。君ヶ畑滞在は9年ということになる。
  3. ろくろを使い木地物をつくる技術は弥生期に既に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたというから、惟喬親王の発明伝説はつくり話のようである。
  4. 木地師特権については元文書は残っていないが、一定の特権を与えられた可能性はある。

木地師のふるさと小椋谷

木地師とは

木地師木地屋ともいわれ、山の木を伐採し、手引きろくろを使って盆・椀・こけしなどをつくる職人のことで、美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していた。

木地師は、惟喬親王を祖と仰ぎ、近江・小椋庄に住む木地師一門を本家とし、地方に散在する木地師すべてを分家とみる、擬制的同族組織だった。小椋谷の神社とその氏子の形で管理された。

一方、地方の木地師は同族分家として木地師の特権が得られ、本山(オヤマ)である君ヶ畑、または蛭谷を一生に一度訪問することを願った。

木地師の特権と統制の歴史

木地師は「7合目より上で伐採自由」という朱雀天皇の綸旨の写し(実際にはこの綸旨は偽文書と見られている)を所持していた。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持つようになり、江戸時代になり幕府の統制が全国に及ぶようになると、有力大名彦根藩の領地であったことも後押ししたでありましょう、木地師の統制も全国に及ぶことになります。

前記の惟喬親王のろくろ発明木地師特権受理の伝承は、惟喬親王の伝説を膨らませる形で、木地師発祥地の権威づけをしようとした、この頃の作り話らしい。そして惟喬親王の重要な軌跡として墓もあった方が良かったのでしょう。

こうして小椋谷が木地師の支配所として完全に認められ、全国の木地師の管理と統括が行き渡るようになった。小椋谷の地は木地師免許を発行し全国の木地師を管領していたのです。

木地師の本家は、君ヶ畑と蛭谷の2系統

木地師の本家は2系統に分かれ、君ヶ畑のほかに蛭谷もそうであった。前記のように君ヶ畑には高松御所大皇大明神があるが、蛭谷には筒井公文所筒井八幡宮帰雲庵があり、勢力はむしろこちらの方が大きく、筒井千軒と言われるほど人口が多かった。両村は仲が悪く、統一することなく別々に活動していた。

氏子狩り

室町末期ごろから全国の木地師を調査する氏子狩というものが行われた。民俗(木地屋の里 君ヶ畑/蛭谷)によると

全国に散在する木地師が増えるにつれ、本山との連絡もとりにくくなったため、天正・永禄の頃より、近江の本元から地方へ勧進に出る氏子狩(巡国、巡回り)が行われた。蛭谷側が先に氏子狩をはじめ、その後君ヶ畑も対抗して独自の氏子狩を行うようになった。複数の巡国人が人口調査を行い、木地師の来歴と祖先信心を説き、木地頭を設けて初穂料を集め、隠れて仕事をしたり別家して届けない者を監視した。5~10年間隔で通常二人、3~6ヶ月で一地方を回る。その台帳は今でも残っています。

繁栄と明治以降の衰退

同じく民俗(木地屋の里 君ヶ畑/蛭谷)によると幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、上納金で小椋谷は大いに繁栄したが、明治に入り社会制度が大きく変革すると、木地師社会も影響を受けるようになる。

特権階級の廃止の一環で、このような木地師制度も認められず、民間の山の所有権が認められると所有者との間でトラブルが多発し、氏子狩りも明治6年を最後にできなくなった。

明治15年、蛭谷筒井八幡宮帰雲庵を中心に惟喬親王千年祭を営み、全国各地から何千の木地師が集まり、壮観を極めたという。翌年、君ヶ畑大皇大明神金竜寺を中心に千年祭を執行した。このあたりを境に、本山(オヤマ)の威光も木地師の生業も大きく変貌し、木地師社会は終焉を迎えた。

伝来能面の特別拝観

このガイドツアーの目玉であり正子の訪問目的でもあった、大皇器地祖神社(大皇大明神)に伝わる能面6面を拝見した。

金龍寺で説明を受けた部屋にある引き戸(下の写真)は杉の一枚板で作られていて立派なこと。その奥が収納庫になっている。

杉の一枚板の引き戸

杉の一枚板で作られた収納庫入口の引き戸。菊の御紋が光る。

案内されて収納庫に入ると、当該の能面はの下写真のようにガラスケースに収められていた。1-4が室町末期、5,6が江戸中期の作とされる。

ショーケースに納められた能面

ショーケースに納められた能面

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1.翁(白色尉)

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2.三番叟

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3.父尉

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4.延命冠者

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5.翁

6.三番叟(黒色尉)

6.三番叟(黒色尉)

特に1と4は顎が分かれていない古い形式で珍しく、かっての文化財の調査に漏れて指定がないが、再調査されれば国宝指定が確実だろうという貴重なもの。

ちなみに滋賀県の由緒ある神社には仏像ならぬ神像が伝わるところが多い。これはろくろ以外にもこの地に古くから木刻の技術継承があったことを示す。

その他の小椋谷地区について

今回は立ち寄らなかったが、君ヶ畑以外の小椋谷と公共交通によるアクセスについて記す。

蛭谷

前記のように木地師の本家は君ヶ畑蛭谷に別れていたが、蛭谷のほうが規模が大きかった。筒井公文所筒井八幡宮帰雲庵があって、往時、小椋千軒と呼ばれるほどに隆盛を極めた。

道路沿いの掲示板を見ると、現在の蛭谷集落は10軒にも満たず、全てが小椋姓である。木地屋民芸資料館があるが、常住するの民家は一戸のみで、他は週末等の休みに帰ってくる程度らしい。

政所と政所茶

小椋谷六ヵ村のうち一番大きな村である政所は一帯の中心地である。小椋太政大臣実秀(藤原実秀)の居所であったことから「政所」と呼ばれるようになったと伝わり、同町の八幡神社には親王木像や親王塚が現存する。

『宇治は茶所、茶は政所、娘やるのは縁所、味のよいのは九居瀬の茶♪』
という茶摘み唄があったように、かっては小椋谷では煎茶の栽培が非常に盛んに行われていた。木地師により政所茶として全国に広まりそのうまさで聞こえたという。当時の生業は茶に加え、木業、炭焼きが盛んであった。

風情あるお宿

愛知川と御池川の合流地点(住所は政所町)には、故山本素石がよく宿を取ったとされる肥夏屋、永源寺ダム建設により水没するはずの民家を数軒移築して造ったという一日一組の宿、日登美山荘がある。静かに風情を楽しめそうで一度泊まりたいものだ。

マイカー以外の交通アクセス

公共交通を使って君ヶ畑へ行くには、まず鉄道で東近江市の中心都市八日市を目指すのだが、JR琵琶湖(東海道)線からは、次の二通りの経路がある。

  1. 近江八幡駅から近江鉄道八日市線(近江八幡~八日市)に乗り換え、終点八日市駅下車
  2. 彦根駅から近江鉄道本線(米原~貴生川)に乗り換え、八日市駅下車

近江鉄道は単線のワンマンカーで、関東の西武鉄道などの中古車両が再塗装されて運行されており、地元ではガチャコン電車と愛称されている。

八日市駅からはバスに乗り、永源寺町で乗り継いで政所経由で君ヶ畑へ行く。

  • 八日市駅ー永源寺町:近江鉄道バスまたは東近江市コミュニティバス
  • 永源寺町ー政所君ヶ畑:東近江市コミュニティバス

八日市駅からコミュニティバスなら永源寺付近の「診療所前」で君ヶ畑行に乗り継ぐと料金は合計400円で所要時間は約2時間。

永源寺町には入浴と食事ができる永源寺温泉 八風の湯という日帰り温泉があり、近江八幡駅から無料送迎バスが出ているので、ここを利用しつつ周辺を訪ねる方法もあります。

私自身はマイカーでしか行っていません。バスの便数も少ないと思われますので、行かれる方は自身で東近江市観光協会等に確認してください。


文中にも記していますが、主な参考資料・参照webは以下の通りです。

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